現代ほどイノベーションが求められている時代はないだろう。特に100年に一度の大変革期とされる自動車業界では新たなモビリティ創造のための模索が続き、その未知なる世界観や、これまでにない概念を表す言葉も次々と誕生している。このシリーズではイノベーションの扉を開くヒントになりそうな、新しいビジネス用語を解説していきたい。
Date:2018/12/18
Text:株式会社サイエンスデザイン 林愛子
第1回:未来から逆算して考えるバックキャスティング
1960年代後半。科学者たちは資源開発と人口増加を背景に深刻化する環境汚染を憂い、このままでは地球が破綻すると警鐘を鳴らした。
地球のためには何らかの対策が必要。しかし、目の前の経済活動に影響が出るのは確実で、誰も動きたがらない。しかも、地球は大きい。誰がどんな対策をすれば、環境を守れるのか、効果があるのかが見えにくい。
そこで科学者たちが論文で説いたのがバックキャスティングだった。いま出来る対策を考えるのではなく、人類が生存し続けることのできる地球の姿を先に規定し、その理想の未来を実現するための対策を考えていこうと提案したのだ。
バックキャスティングとはあるべき姿や理想像を先に描き、その実現のためにこれから何をすべきかを逆算して考えるという思考法を指す。
いまも環境対策の多くはバックキャスティングである。今世紀末、地球の平均気温は0.3度から4.8度上昇すると予測されているが、人類への影響を考えると、上昇幅は2度程度に抑える必要がある。昨年のパリ協定では更に踏み込んだ1.5度という目標が合意された。いずれにしても、その目標値から二酸化炭素(CO2)許容量の上限が決まり、排出削減目標が決まる。2100年の地球のあるべき姿から逆算して、成すべき対策を考えるわけだ。
これとは反対に、過去や現在から未来を考える思考法をフォーキャスティングという。
過去の気象データをもとに考える天気予報はフォーキャスティングの代表だ。各種製品のバージョンアップもフォーキャスティング的な発想で、「より良くなりました」「便利になりました」というのは既存製品の課題を解決したということ。この視点もビジネスでは必要だが、過去や現在の延長線上で考えるため、飛躍的な発想は生まれにくい。
いま渇望されているイノベーションはフォーキャスティングではなく、バックキャスティングから生まれるものだ。
アポロ計画はジョン・F・ケネディが月面着陸を実現すると宣言したことが転機になったという。明確な目標が大勢の関係者間で共有されたことで研究開発が進み、大方の予測よりも大幅に前倒しで実現に至った。「ムーンショット」という言葉はここから生まれたもので、意味はバックキャスティングとほぼ同じである。
また、パソコンの父と称されるアラン・ケイは1972年に子どもたちが大画面の端末で遊ぶ絵を発表した。いま見ればスマートフォンあるいはタブレットなのだが、パソコンがなかった時代に示した情報端末の未来図はその後のコンピュータ開発に大きな影響を与えた。
自動車業界でも多数の事例がある。
トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎は欧米で始まった自動車社会の姿に衝撃を受け、日本にも国産自動車を普及させたいと考えた。数々の困難に見舞われながらも、トヨタは国産自動車の開発に成功し、自動車メーカーとしての地位を確立した。そのトヨタが2015年に発表した「環境チャレンジ2050」は2050年のあるべき姿から挑戦するテーマを定めており、まさにバックキャスティングそのものである。
また、ホンダのCVCCエンジンもバックキャスティングの好事例と言える。1970年代、米国カリフォルニア州では環境規制が強化され、通称マスキー法が登場。ホンダのエンジニアたちはこの環境規制に適合するエンジンという理想像に向かって全力で取り組み、あの革新的な製品を生み出した。既存エンジンを少しずつ改良していったとしたら、あれほどの短期間で適合エンジンを開発することはできなかっただろう。
CASE(Connected、Autonomous、Shared&Service、Electric Drive)にしても、MaaS(Mobility as a Service)にしても、手前の課題にとらわれていてはなかなか理想のゴールにたどり着けないし、イノベーションも起こり得ない。未来のモビリティはどうあるべきか、いかなる交通社会を実現したいのか、そんな未来のあるべき姿から、いま取り組むべき課題を考えることで、いままでとは違った視点が得られるのではないだろうか。
【監修】尾崎えり子(Backcasting Lab.編集長)
◆参考
・トヨタ自動車「環境チャレンジ2050」
・Honda「語り継ぎたいこと/CVCCエンジン発表」