モビリティ再考(前編) フランスに見る多様な乗り物が共存する社会


モビリティ――この言葉は、最近10年間で急に一般的になった。でも一部の人はこの言葉の意味を誤解しているのではないかと思っている。自動車、自転車、鉄道、飛行機、船などの乗り物を総称する言葉だと考えている人が多いのではないだろうか。

2017/1/14
モビリティジャーナリスト&モータージャーナリスト
森口将之

自動車とモビリティの違い

 乗り物とモビリティには大きな違いがある。乗り物は自動車や鉄道など輸送機器そのものを指すのに対し、モビリティを辞書で調べると移動可能性、つまり移動のしやすさであり、主語は移動機器ではなく人間となる。つまり人間の立場から移動を考えることを意味している。日本語で言えば交通という言葉が近いかもしれない。交通もまた人間が主語となるからだ。
 筆者はジャーナリズムの世界で、モータージャーナリストとモビリティジャーナリストの2つの肩書きを使い分けている。しかしこの違いは、自動車を扱う場合は前者、それ以外を取り上げるときは後者ということではない。
 前にも書いたように、自動車側の視点はモータージャーナリスト、人間側の視点はモビリティジャーナリストという違いがあると考えて活動している。
 この違いに気づくきっかけとなった一冊の本がある。2004年に発行された『クルマ社会のリ・デザイン』(鹿島出版会)だ。
 同書はさまざまな分野で活躍しているデザイナーやクリエイター、研究者など30人以上の有識者が、自分たちのフィールドから自動車社会を見つめ、書き下ろしたものだった。筆者も自動車メーカーとの繋がりがあるモータージャーナリストだったことから声を掛けられ、自動車メーカーの立場という視点で本作りに参加することになった。
 当時まだモビリティという言葉は一般的ではなかったので、サブタイトルに入れるに留め、メインタイトルにはクルマ社会という言葉を使ったものの、方向性はまさにモビリティだった。
 世界初の量産電気自動車と言われる三菱自動車i-MiEVが発売され、Googleが自動運転を研究開発中とアナウンスしたのは、それから5年以上あとのことである。手前味噌にはなるが、同書がかなり先進的な取り組みをしていたかが分かろう。
 この経験が契機になって、筆者が自動車を見る目は変わりはじめた。パワーユニットやプラットフォームといったモータージャーナリストとしての評価軸だけでなく、そのクルマが社会に置かれ、人々が使う際にどうなのかというモビリティ的視点も持つようになったのだった。

 

三菱自動車「i-MiEV」

 

デザイナーたちが説くクルマ社会の課題

 書籍の編集に関わると同時に、本書の著者にもなっている日本デザイン機構に入会した。
 日本デザイン機構とは、さまざまな専門分野を持つ人々が知を融合することでデザインに関わる大きな課題に取り組み、多彩な運動を通して提言をしていく活動団体であり、ともに本を作った方々を含め、多くのデザイナーたちとこの場で交流を深めることになった。
 デザイナーの仕事は現在社会の諸問題を新しいアイディアで解決するものと理解している、つまり解決法は常に未来思考である。だからこそ彼らの言葉に自然と耳を傾けるようになった。クルマ社会についても、自動車ジャーナリズムから生まれてこないような斬新な発想が次々に飛び出してきた。
 たとえばシェアリングという考え方は、この時期すでに一般的になりつつあった。先輩メンバーのひとりはそれを、所有と使用という2つの言葉で表していた。2010年に出版され衝撃を与えた名著『シェア<共有>からビジネスを生みだす新戦略』(NHK出版)と似たような議論が、ここでは巻き起こっていた。
 もちろん自動車に関してはこちらの方が知っている。しかしそれを理由にデザイナーたちの言葉を否定していたら、今の自分はなかっただろう。
 彼らの多くが口にしていたのは、行きすぎたクルマ社会の是正だった。19世紀末に市場化された自動車は、20世紀を代表する工業製品と言われるほどの発展を示したが、一方で大気汚染や交通事故などさまざまな問題を引き起こした。自転車や公共交通などに移動の一部を分担させていくべきという主張が多数派を占めていた。
 それはまさにモビリティ的発想だった。人がその都市内を移動する際に、どの乗り物を使えば環境に優しく、万人にとって安全快適であるかという、人間の側から移動を考える発想だったのである。
 筆者は自動車ジャーナリズムに身を置きつつ、幼少期から鉄道好きで、自動車のみならず自転車や二輪車にも乗るなど、昔から多種多様な乗り物を使い分ける生活を送っていたので、この方針に基づいて動きはじめた。これがモビリティジャーナリストとしての活動である。

日本デザイン機構では多くのデザイナーと交流を深めた

 

世界初、移動の権利を定めた法律

 この方針を確立するにあたって参考になったのがフランスだった。自動車を含めたフランス好きが高じて現地に何度も足を運ぶことになって、ある変化に気づいた。一度は廃止された路面電車が近代的なLRTとして次々に復活し、自転車シェアリングが各所で普及していた。自転車レーンやバスレーンが一気に増え、両者を共用としたレーンも各所で見られた。
 日本から行く場合のフランスの空の玄関口となるパリは顕著で、1年おきに景色が変わっているような印象を受けた。
 フランスでは1982年に「LOTI(国内交通基本法)」という法律が施行されている。国内交通に関わる方向付けの法律という意味で、国民の誰もが容易に、低コストで、快適に、社会負担を掛けずに移動できる権利を認めたことで注目された。世界でいち早く移動権(交通権と呼ぶこともある)を制定した法律だった。
 フランス各都市で急ピッチで進んでいた公共交通整備は、このLOTIに基づくものだった。日本では排出ガス規制が一段落して高性能車が再び出現しはじめた時期に、この国はより先を見据え、自動車から公共交通への転換を国を挙げて推し進めていたのである。
 現在のモビリティにまつわる諸問題は、自動車の力だけで解決できると信じている人が自動車業界の中にはいる。しかし残念ながら、現在の諸問題の多くは行きすぎたクルマ社会によって引き起こされたものである。

パリのLRT

 

人口が集中する都市の移動をどうするか?

 もうひとつ、フランスをはじめとする欧州や東南アジアを訪れて印象的だったことがある。二輪車の多さだ。
 日本では高度経済成長時代、自転車から二輪車、二輪車から自動車に乗り換えていくことがステップアップと捉えられた。乗り物が豊かさの象徴として考えられていたからだろう。筆者もまず二輪車の運転免許を取ったところ、数年後に親から「そろそろバイクは卒業したらどうか」と言われた。
 安全面や快適面を想定しての助言だと理解した。しかしながら乗用車には空間効率という大きな欠点がある。日本の乗用車の平均乗車人数は約1.3人と言われる。つまり多くの場合二輪車でも賄える。おまけに日本には世界最大の二輪車メーカーがある。にもかかわらず都市内の移動に二輪車を使う人は少ない。
 そんな日本を基準とすると、東南アジアや欧州の都市は二輪車で溢れ返っているという印象だ。欧州の都市から東京に転勤してきた外国人はこの習慣が身に付いており、自動車を所有せず二輪車で都市内を移動する人が多い。
 自転車はそれに比べれば日本でも市民権が得られつつある。しかし利用者が多くなるにつれ、同じ道路を自動車と共用するうえで不満を寄せる人が増えてきた。一部の自転車利用者のマナーの悪さも理由に挙げられるが、自転車は邪魔だと言ってのける協調性の欠如したドライバーがいるのもまた事実である。
 仮にすべての東京の移動者が自動車で移動したらどうなるか。それは2011年3月11日の夜が証明した。東日本大震災によって公共交通が動かなくなった結果、多くの人が自動車での移動を選択した。その結果、筆者の妻は通常なら30分で行ける距離に5時間も掛かり、途中で動き出した鉄道に乗り換えて帰ってきたという顛末だった。
 今後世界中で都市への人口集中が強まっていく。その際に多くの人が乗用車での移動を選択すれば、たちまち交通は破綻するだろう。都市化が進めば進むほど、モビリティの公共化と共存性が求められるのである。

パリ市内では二輪車を多く見かける

 

後編に続く)

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